定説の藤原不比等

不比等に関しては諸説あるが、まずは定説から。

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斉明5(659)年、中臣鎌足の第二子として生まれ、
名を史とする。

4歳の時(663年=天智2年)に白村江の戦で新羅と
戦い敗北する。

史の兄の真人は、定慧と名を改め学門僧として
唐に留学していたが、白村江の戦から2年後、
史6歳の時(665年)に帰国するも、同年死亡。
よって史が鎌足の後継者となる。

669(天智8)年10月15日、父鎌足が冠位十三階の
最高位である大織冠と藤原姓を賜り、直後に53歳
で他界。2年後671年に天智天皇崩御。死の間際に
長子大友皇子の即位を大海人皇子に宣言し、その
補佐を誓わせる。弘文天皇である。

672(天武元)年、大海人皇子が挙兵し、クーデターを
起こす。世に言う壬申の乱である。この時田辺小隅、
中臣連金は近江朝側につくも、大海人軍に破れる。
大友皇子は自害。
(近江朝は天智天皇が近江大津宮に都を置いた西暦667年
から、壬申の乱までの期間をさす)

679年ころ、蘇我娼子(しょうし)を妻に迎え、翌年には
南家の祖である長男・武智麻呂(680-737)が、さらに
その翌年には北家の祖である次男・房前(681-737)が
生まれる。10余年後に娼子との間に式家の祖である三男・
宇合(694-737)が生まれている。

686年、天武天皇崩御。天武の長子・大津皇子が謀反の
罪で処刑される。

689(持統3)年2月、直広肆(従五位下)判事となる。

ここまでが、不比等が歴史に登場する前の経歴である。
31歳で判事となったのは、何か功をなしたからなのか。
とにかく、父・鎌足が近江朝側だったため、不比等は
天武朝は不遇の時代であり、下級官吏として出仕する
身分だった。

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