不比等登場

不比等が歴史に登場するのは、持統三年の判事に
なった時で、生年を659年とすると30歳、658年と
すれば、31歳になっている。

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そしてこの年、持統女帝がその即位を心から望み、
その即位まで、自分の全てをかけて彼のために道を
造り、彼のための座を維持し続けてきた、その最愛
の息子、草壁皇子が歿っした。

不比等は草壁皇子の舎人だったのだろうか、皇子の
黒作懸佩刀を与えられている。

いかに優秀な舎人だろうと、それまで官位を持たない
下級役人に、どうして天皇家の宝物を預けたりする
だろうか? 何事もなくてそのような厚遇はあり得ない。

不比等が持統女帝にとって都合の良い何らかの働きを
したのであり、母子の思いを不比等に託す意味を込め
たのではないだろうか。その思いとは...
正史からは何も読み取れない。

折口信夫著「死者の書」という小説がある。
これは、二上山に埋葬された大津皇子が処刑から何十年
も経って、自らの墓の中で目を覚ますシーンから始まる。
時代は760年頃。不比等の長子、南家の祖である武智麻呂
の息子豊成の時代である。その長女の前に大津の皇子か
阿弥陀如来の姿で現れ祟る話である。皇子の台詞はこう
書かれている。

「藤原が朝臣(あそ)が宿 処女子(おとめご)は出(い)で
通(こ)ぬものか 処女子の一人 一人だに わが配偶に
来よ 吾はもよ偲ぶ 藤原処女(おとめ)」

祟られた豊成の長女は、奈良の当麻寺にその伝説が残る
中将姫である。伝説によると、彼女は蓮糸で曼荼羅を織り
その後生きたまま西方浄土へと旅だった...とある。
この伝説にヒントを得た折口氏が『大津皇子を阿弥陀如来
と思いこんだ姫が、その脱いだ肩を温めるための蓮糸の
衣を織り上げると、その曼荼羅が布から浮き出て来ると
いう不思議な現象があり、姫は自ら浄土へと旅立つ』と
いう話を書いたのであろう。

この作品から、折口信夫氏が大津皇子の謀反に際し不比等
が何か画策し、処刑へと追い込んだ...と推測していることが
解るのである。

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