遣唐使

さて、遣唐使であるが、命がけで大陸へ行かなければ
ならないどんな理由があったのか。
遣唐使の歴史にはここでは触れず、不比等が生きた時代
の遣唐使にのみスポットライトを当てて見る事にする。

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遣唐使に任命された大使達は、まず祭祀を行う。
当時の渡航技術は今ほど安定しておらず、行きつけるか
行き着いても帰ってこれるか解らないほど危険なもの
だったので、まずは神に渡航の無事を祈るのだ。

そして、大使は「節刀」なるものを授けられる。
せっとうと読むのだが、天皇の最高軍事指揮権の象徴
とされていた。戦になると、天皇は将軍にこの節刀を
預け全権を委ねたことを示したという。そして戦が終了
すると再び天皇に戻した。
この刀が遣唐使にも委ねられ、その時から大使は家に
帰ることは許されない決まりだったようだ。

この遣唐使船は、難波の三津浦から出航したとある。
難波は朝鮮半島との交通の要所だった。
船は瀬戸内海から九州に出て、そこから大陸へと航行
するのだ。

不比等の時代には遣唐使船は4隻で、5~600人ほどが
乗っていたと言われているが、実際に派遣されたのは
その内の一握りだったらしい。
(つまり、それ以外は船上の労働者ということか)

この中に、粟田真人なる人物がいた。
粟田真人は不比等と同じ朝臣(あそみ)姓の官人で、
旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝によると
「真人好んで経史を読み、文を属するを解し、容止温雅なり」
と言わしめた程優秀な人物だったようだ。

粟田真人が遣唐使として渡航したのは、大宝律令完成の翌年
702年の事である。そして2年後無事に帰国。
その後今で言う外交官として活躍するのである。
不比等にとっては、無くてはならない片腕だった男である。

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