粟田真人

粟田真人は当時、スタートしたばかりの日本国の政には
欠かせない人物であった。にもかかわらず、無事に行って
帰って来れるかもわからない心許ない航海技術でありなが
らも、遣唐使として入唐させたのか。

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彼しか居なかった。
それが答えだろう。

新生・日本国の代表として恥ずかしくない、知性・品格が
備わっていなければならないだけでなく、外国語が堪能で
なければならなかっただろう。しかも、派遣先で人脈を構築
し、必要な情報を確実に入手して持ち帰る。それが出来る才
が必要とされたのだから、条件はさらに厳しくなる。政治に
素人では話にならないのであるから、現役政治家が行かなけ
ればならないのだ。

正にそれに相応しい人物がいたとすれば、それは藤原不比等
その人だっただろう。
しかし、藤原不比等が日本を離れる訳には行かないから。
自ずとその白羽の矢は不比等と共に大宝律令の編纂を行った
粟田真人に立てられた。

粟田真人が遣唐使として唐に渡った頃は、既に国際関係は
ある程度安定しており、遣唐使としての目的も、軍事目的
ではなく、国際情勢の把握と広く外の世界を知ることが
主要な目的だったようだ。多くの書物を携えて帰国したこと
であろう。

日本国という国を確かなものにするためには、律令制度の
確立だけではだめなのである。地方豪族の文化ではなく、
日本国としての独自の文化を持たなければならないと考えた
のではないだろうか。

文化は創ろうとして創られるものではなく、一日で成るもの
でもない。だから長いタイムスパンでこの国の歴史を根本
から作り直そうと不比等は考えたに違いない。
不比等という男は、一体どこまでこの国の行く末を見て
いたのだろう。どうしてそこまで、飽きることなく日本国の
基礎固めに一生を捧げたのだろうか。

粟田真人は、不比等のどんな目的を、どこまで理解し
どんな風に支えていったのか、興味は尽きない。

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