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    <title>藤原不比等の歴史｜藤原不比等の人物像</title>
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    <updated>2010-08-30T15:24:16Z</updated>
    <subtitle>藤原不比等とは何者でしょうか？魔王とも呼ばれる大物政治家、藤原不比等の人物像と歴史についてを掲載しています。</subtitle>
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    <title>神奈川にある社労士事務所</title>
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    <published>2010-08-30T15:09:39Z</published>
    <updated>2010-08-30T15:24:16Z</updated>

    <summary>社会保険労務士が、個人事務所を構える場合の大まかな名称はたくさんあります。 社会...</summary>
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    <category term="神奈川、川崎、社会保険労務士事務所" label="神奈川、川崎、社会保険労務士事務所" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blueskiespc.com/fuhito/">
        <![CDATA[<p>社会保険労務士が、個人事務所を構える場合の大まかな名称はたくさんあります。</p>

<p>社会保険労務士事務所であったり、社労士事務所であったり、労務管理事務所であったりさまざまです。</p>

<p><a href="http://www.roumujinji.jp/">神奈川にある社労士事務所</a>のように、コンサルティングオフィスというケースもあります。</p>

<p>社労士は、労働、社会保険、各種助成金等、多くの知識を持っています。<br />
会社の「困った！」に対して、専門的な知識をもって的確に対応してくれます。</p>

<p>実際、社会保険労務士にさまざまな手続きや作成を依頼する会社経営者は多いのです。</p>

<p>全てを自分でしようとするのが決して悪いわけではありませんが、専門知識を持った方に頼るのも、一つの手段だと思います。</p>

<p>手間が省ける上に、会社における労働、社会保険、助成金等のトラブルも軽減できるのではないでしょうか。</p>]]>
        
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    <title>宮子</title>
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    <published>2009-06-12T06:16:26Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:17:42Z</updated>

    <summary>不比等が後の文武天皇となる軽皇子に、妃とすべく 差し出したのが娘・宮子である。 ...</summary>
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        <![CDATA[<p>不比等が後の文武天皇となる軽皇子に、妃とすべく<br />
差し出したのが娘・宮子である。<br />
後の聖武天皇となる首皇子(おびとのみこ)を生んだ<br />
ことで、不比等は天皇の祖父となる。</p>

<p>宮子が生んだ皇子を皇太子とするため、文武の他の<br />
２妃であった紀朝臣竈門娘と石川朝臣刀子娘を妃から<br />
嬪(ひん)に格下げしたことにより、この２妃が生んだ<br />
子供達も皇位を剥奪され、よって皇太子候補は首皇子<br />
一人となったのである。</p>

<p>不比等が編纂した律令制において、階位は男のみでは<br />
なく、後宮についても事細かに定められていた。<br />
後宮のTOPは皇后であるが、継いで妃、夫人と続き、<br />
その後に続くのが嬪となる。</p>

<p>この二人の妃の格下げの理由については定かではなく<br />
当時の天皇である、元明天皇がそれを望んだとは<br />
考えがたい。何か抜き差しならない理由があったの<br />
だろうか。この結果を受けて笑う者は不比等唯一人<br />
なのである。</p>

<p>宮子の出自については、賀茂氏の娘である賀茂比売<br />
との間に生まれた娘ということになっている。<br />
しかし、宮子に関しては別の伝承がある。</p>

<p>和歌山県の御坊にある髪長姫伝説の姫が宮子だと<br />
いうのである。「宮子姫髪長譚」として御坊市の<br />
道成寺に、その伝説は語り継がれてきたというのだ。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>日本古代史の謎</title>
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    <published>2009-06-12T06:14:53Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:16:19Z</updated>

    <summary>どこまで遡れば良いのか。 神話にまで遡ると、もはやそこから推測するのは ほぼ不可...</summary>
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        <![CDATA[<p>どこまで遡れば良いのか。<br />
神話にまで遡ると、もはやそこから推測するのは<br />
ほぼ不可能であるが、そこにある意図を読み取る<br />
ことは出来るだろう。</p>

<p>神武天皇が、実は秦の始皇帝に東の国に不老不死<br />
薬があるので取りに行きたいと申し出、許可された<br />
という伝説の人物・徐福ではないかという説がある。<br />
徐福は、その当時の呪術師だったと言われている人物<br />
である。</p>

<p>しかし神武天皇まで遡ってしまうと、それがどう<br />
不比等に繋がるのか糸口が見つからなくなる。<br />
ゆえに、ここでは天智・天武まで遡る事にする。</p>

<p>まず、この二天皇が兄弟であるという定説が、最近<br />
その年齢から実は違うのではないかと疑われる様に<br />
なってきている。</p>

<p>没年から割り出すと、弟で有るはずの天武天皇が<br />
兄である天智天皇よりも年上であることになるからだ。<br />
天智天皇は671年に46歳で死んだ事になっているが、<br />
弟である天武天皇は686年に65歳で死んだとある。<br />
記述にミスが無い限り、天智天皇が死んだ時天武天皇<br />
は既に50歳だったという計算になるからだ。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>渡来人2</title>
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    <published>2009-06-12T06:12:57Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:14:45Z</updated>

    <summary>後に大化の改新へと繋がる乙巳の変の首謀者である 天智天皇(大化の改新当時は中大兄...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blueskiespc.com/fuhito/">
        <![CDATA[<p>後に大化の改新へと繋がる乙巳の変の首謀者である<br />
天智天皇(大化の改新当時は中大兄皇子)と中臣鎌足。<br />
この二人は同族なのだろうか。一説には首謀者は後の<br />
孝徳天皇となった軽皇子であり、中大兄皇子と中臣鎌足<br />
は単に実行したに過ぎないという説もあるようだが...。</p>

<p>中臣氏の出自は定説では常陸(今の茨城県鹿島)の出身<br />
で、中臣氏に養子に入ったとされているが、百済系渡来人<br />
説がある。天智天皇も、百済王族の子孫説がある。</p>

<p>蘇我氏については、新羅系渡来人であったとする向きが<br />
多く、となると乙巳の変は新羅vs百済ということになるのか。</p>

<p>では、蘇我氏が滅ぼしたとされる物部氏はどうなのだろう?<br />
教科書では在来政権であると習った気がするが、彼らとて<br />
渡来人であったのではないだろうか。</p>

<p>渡来人は何も蘇我氏だけではない。<br />
秦氏、田辺氏など、日本列島でこの国の盟主たらんとして<br />
火花を散らしてしたのだろうか。</p>

<p>それは、あたかもネイティブアメリカンの聖なる土地に土足で<br />
踏み込み、侵略と略奪の限りを尽くし、挙げ句の果てに正義<br />
を振りかざす、その傍若無人さに似ている。<br />
</p>]]>
        
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    <title>渡来人</title>
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    <published>2009-06-12T06:09:34Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:12:50Z</updated>

    <summary>渡来人は、どこから来たのか。 元々この日本列島にはどんな民族が住んでいたのだろう...</summary>
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        <![CDATA[<p>渡来人は、どこから来たのか。<br />
元々この日本列島にはどんな民族が住んでいたのだろう。<br />
アイヌ人だとか、琉球とアイヌは同じ縄文人であり、この<br />
国の先住民であるとか、諸説あるが、ここは東西南北からの<br />
移民達の吹きだまりに違いない。</p>

<p>蘇我氏もその渡来人の一種族と言われているが、蘇我氏に<br />
ついて正しい記録は残って居ない。名前すら解らないのだ。<br />
教科書に載っている、稲目－馬子－蝦夷－入鹿は、後から<br />
侮蔑を込めて付けられた名前であり、本当の名前ではない。<br />
大化の改新で蘇我入鹿が、中臣鎌足と中大兄皇子によって<br />
殺害された(これも諸説ある)ため、蘇我氏に関する情報が<br />
ゆがめられてしまったのだ。<br />
この蘇我氏が実は大王であったという説もある。</p>

<p>そもそも大王だの天皇だの、大君だの、国王級の称号が<br />
いろいろあるのは何故なのだろう?</p>

<p>この島にやって来たのは、蘇我氏だけではない。いろんな<br />
国からやって来たことだろう。それぞれが自分たちの王国を<br />
ここで作ろうと躍起になっていたなら、国王の呼称も様々<br />
だろう。</p>

<p>大化の改新を、在来政権が外来政権から主権を奪回した<br />
クーデターだとする説がある。<br />
しかし本当にそうだろうか。奪い取った側も、在来ではなく<br />
別の外来種であったという可能性を、切り捨てる事はできる<br />
だろうか?<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>日本書紀</title>
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    <published>2009-06-12T06:07:25Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:09:25Z</updated>

    <summary>日本書紀を事実上編纂したのは藤原不比等だ...とは、 歴史学者は言っていない。 ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blueskiespc.com/fuhito/">
        <![CDATA[<p>日本書紀を事実上編纂したのは藤原不比等だ...とは、<br />
歴史学者は言っていない。<br />
「どこにそんな証拠がある?」と聞かれても、説得力<br />
ある証拠を提出出来ないからである。</p>

<p>それでもなお、日本書紀は不比等の手によるものだと<br />
信じる学識者は本当に多い。というよりも、もはや<br />
公然の事実として語られている。</p>

<p>古事記も不比等編纂説が唱えられているが、これに<br />
対しては上田正昭先生は否定的であられた。</p>

<p>不比等という人物は、実に遠い未来を頭に描き<br />
「記録」を操った人物だと思われている。<br />
だとすると、一体なんの為にそこまでする必要が<br />
あったのか?</p>

<p>あるいは日本国を作り、日本の歴史を「創作」する<br />
ことを目標と定め生きたのかも知れない。</p>

<p>国を作る、国の歴史を作り上げる。<br />
後世の日本人を洗脳する為に。</p>

<p>我々が信じている日本国の歴史は、どこからが事実で<br />
どこまでが創作なのか。はっきり語れる者がいるだろうか?</p>

<p>不比等と言う男、出来るだけ表にでないように、打たれる<br />
釘にならないように生きていた様に思う。<br />
梅原猛氏が指摘したように、彼に関する記述を出来るだけ<br />
残さないように動いたとしか思えない程、彼に関する<br />
記録が無いのだ。</p>

<p>彼自身の存在を隠す事で、「歴史の創作」にスポットライト<br />
が当たらないように画策した...としか思えなくなってくる。</p>

<p>定説の不比等は地味で、だが偉大なる政治家ではあるが<br />
日本史上特に目立つ存在ではない。<br />
そして、そうなるように自ら仕向けたのだとしたら、我々は<br />
未だ不比等の洗脳から解けずにいるのかも知れない。</p>

<p>最後まで左大臣への昇進を拒み、右大臣のまま生涯を終えて<br />
いる不比等。それには策士としての目論見もあっただろう。<br />
自分が左大臣に成ることによって昇進する者がいるとして、<br />
それを敢えて阻止するためであったかも知れない。</p>

<p>しかし、彼の目的は「支配者になる」などというつまら<br />
ない事などではないはずだ。</p>

<p>定説の不比等をこの際頭から一掃し、彼が何者で、どこから<br />
来て、何を目指して生きたのか。</p>

<p>奇想天外とも思える考えかも知れないが、心に秘めた<br />
思いがずっとある。それを恥を忍んで晒して行きたいと<br />
考えている。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>古代日本の情報源</title>
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    <published>2009-06-12T06:04:29Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:07:17Z</updated>

    <summary>古代日本のお手本は、唐だったというのは誰もが 認めるところで、諸外国に関する情報...</summary>
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        <![CDATA[<p>古代日本のお手本は、唐だったというのは誰もが<br />
認めるところで、諸外国に関する情報も遣隋使や<br />
遣唐使が大陸から持ち帰り広めていた。<br />
...本当にそれだけだろうか?<br />
行って帰ってくる、そのうちにも大陸の情報はどんどん<br />
古いものになっていっただろうし、常に大陸に後れを<br />
とることになる。</p>

<p>粟田の真人が２年の間に、日本に情報をもたらすべく<br />
ネットワークシステムを構築してきたのではないかと<br />
考えている。</p>

<p>遣唐船は危険であるが、インドや中東諸国には航海術<br />
に長けた集団がおり、そうした人々と積極的に交流し、<br />
コネを作り、常に人が新しい情報を持って日本に渡航<br />
してくるように図ってきたとは考えられないだろうか。</p>

<p>大陸と、周辺国との国際関係も含めた様々な情報は<br />
確かに価値あるものだっただろうが、それだけで世界の<br />
中の日本を俯瞰して見るなどということは、千里眼でも<br />
無い限りできないはずだ。</p>

<p>法隆寺の解体工事をしたときに、当時の木材から<br />
イスラム圏の名前が墨で書かれていたものが発見<br />
された。我々が思っている以上に古代日本は国際交流<br />
がさかんだったのではないだろうか。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>中臣</title>
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    <published>2009-06-12T06:02:09Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:03:39Z</updated>

    <summary>中臣という姓は、二大勢力のどちらにも与せず 仲介者であることを意味するそうな。 ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blueskiespc.com/fuhito/">
        <![CDATA[<p>中臣という姓は、二大勢力のどちらにも与せず<br />
仲介者であることを意味するそうな。</p>

<p>二大勢力とは、それぞれの組織のTOPを大君と呼ぶ<br />
ものと大王を呼ぶものに分けられる。</p>

<p>大君は今の天皇家の元祖とも言えるグループで<br />
大王は蘇我氏を指すと言われている。<br />
蘇我氏は実はこの国の王家だったのだ。<br />
そして、聖徳太子(その存在についても諸説あるが)<br />
は法王大王と呼ばれていたという説もある。</p>

<p>しかし、蘇我氏が滅んだため、記録も稀で、実体は<br />
解っていない。<br />
蘇我氏は滅んだとはいえ、その後も天皇家の母や妻<br />
として、血筋を伝えて来ているのだが...。</p>

<p>大君は祭祀的役割を担い、大王は政治を司り、大王の<br />
意に大君が賛同して初めて政が行われたと言われている。<br />
当然、この二大勢力が時として反駁し、主権を奪い合う。<br />
そこで中臣が仲裁をしたとも言われている。</p>

<p>もっとも、大君も大王も渡来系氏族であるわけだが、<br />
大君は百済人、大王は新羅人だと言う向きもある。</p>

<p>中臣については常陸の豪族説があるが、鎌足は養子だった<br />
とする説が有力のようである。<br />
中臣は古くから物部と共に排仏派として、蘇我氏とは敵対<br />
関係にあったとされる。</p>

<p>漸く見つけた安住の土地で、これから自分たちの国造りを<br />
しようというのに、仏教を取り入れ大陸の属領になるわけ<br />
にはいかない。古くからある土地の宗教を上手く取り入れ<br />
新しい異国の血との混合によって出来る新しい独立国家を<br />
造るために、鎌足はこの国にやって来たのではないか。</p>

<p>そして、鎌足の嫡子である不比等がその意志を継ぐ者として<br />
その身辺は厳重に警護されたのではないか。<br />
</p>]]>
        
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    <title>藤原氏の出自</title>
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    <published>2009-06-12T06:00:17Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:02:00Z</updated>

    <summary>藤原氏の高祖と言えば、藤原鎌足であるが、 藤原姓を賜る前は中臣鎌足だった。 中臣...</summary>
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        <![CDATA[<p>藤原氏の高祖と言えば、藤原鎌足であるが、<br />
藤原姓を賜る前は中臣鎌足だった。</p>

<p>中臣氏の出自については様々説があり、実は<br />
はっきりしていない。<br />
中臣氏は天皇の司祭の地位にある一族である。<br />
氏姓制度では連(むらじ)で、天児屋命（アメノコヤネ）<br />
を祖とするとある。取り敢えず。</p>

<p>さらに鎌足自身は茨城県鹿島の出身で、中臣氏に養子に<br />
入ったという説もある。</p>

<p>中臣氏が司祭の地位にあるのに、藤原氏にはその様な<br />
性質が全くないところから、鎌足が中臣氏の真の血縁<br />
者ではないとする説が濃い。</p>

<p>さらに鎌足は百済系渡来人であるという説もある。</p>

<p>中臣氏の地位は思ったよりも低かったのではないだろうか。<br />
鎌足が本当に中臣氏の出であれなんであれ、律令制度を<br />
徹底させた新しい国家で、施政の中心で居続ける為には<br />
高貴な血筋である必要があっただろう。つまり中臣氏に<br />
箔を付ける必要があった。</p>

<p>おそらくは、そこらへんは不比等によって捏造され、<br />
今となっては中臣氏の本当の出自は解らなくなっている。<br />
解らなくなっていると言うこと、すなわち隠したい<br />
事実の一つなのだろう。</p>]]>
        
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    <title>鎌足の妻</title>
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    <published>2009-06-12T05:58:37Z</published>
    <updated>2009-06-12T06:00:10Z</updated>

    <summary>鎌足の妻と言えば、天智天皇より賜った鏡王女と 藤氏家伝に定慧・不比等の母と記され...</summary>
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        <![CDATA[<p>鎌足の妻と言えば、天智天皇より賜った鏡王女と<br />
藤氏家伝に定慧・不比等の母と記されている、<br />
車持与志古娘(くるまもちよしこのいらつめ)が<br />
いる(他にもいるようだが、不明である)。</p>

<p>車持氏は、群馬県の有力豪族だった。<br />
群馬は江戸時代まで「くるま」と呼ばれており、<br />
ぐんまと呼ばれるようになったのは明治になって<br />
からだと言う。</p>

<p>鎌足がもともと藤原の地で生まれ育ったとしたら、<br />
地方豪族の車持氏との縁はどのようなものだったの<br />
だろうか。</p>

<p>当時は今の結婚と異なり、妻は実家にいて、夫が<br />
妻の元に通う「妻問婚（つまどいこん）」が一般的<br />
だった。大和から群馬はかなり遠く、おいそれと<br />
「ちょっと行ってくる」とはいかない距離である。</p>

<p>不比等に関する伝説がこの地に多いのも、母の実家<br />
であるのだから当たり前と言えば当たり前なのかも<br />
知れない。<br />
母の実家から不比等への贈り物も頻繁にあった様だ。</p>

<p>高崎周辺には多くの古墳群があり、車持氏の墓で<br />
あると見られている。</p>]]>
        
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    <title>鎌足から不比等へ②</title>
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    <published>2009-06-12T05:56:48Z</published>
    <updated>2009-06-12T05:58:30Z</updated>

    <summary>この親子が一緒に暮らした年月はわずか１１年。 あるいは幼少期を母親の実家で過ごし...</summary>
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        <![CDATA[<p>この親子が一緒に暮らした年月はわずか１１年。<br />
あるいは幼少期を母親の実家で過ごしたとすると<br />
さらに少ない。<br />
しかも、多忙な鎌足は滅多に館には帰らず、<br />
息子と顔を合わせる機会も少なかったと思われる。</p>

<p>しかし、不比等の辿る道筋を考えると、それは<br />
鎌足が目指したものではなかったか。<br />
だとしたら、どのような形で親から子へ伝えられた<br />
のであろうか。</p>

<p>田辺大隅が大きな鍵を握るのだが、鎌足と田辺氏は<br />
一体どの程度強い結びつきが有ったのだろうか。</p>

<p>車持国子君の娘与志古娘が不比等の母とされているが、<br />
不比等の母の出自である車持氏と、不比等に英才教育<br />
を施した田辺氏がどうやら深い関係にあるらしい。</p>

<p>この二氏族に共通のキーワードが毛野氏である。<br />
どちらも毛野氏族だという説があるが、毛野氏の古墳が<br />
毛野国は現在の群馬県と栃木県の辺りの行政区分である。</p>

<p>群馬とは...あまりにかけ離れた感があるが、毛野氏に<br />
ついて調べて見る必要がありそうだ。</p>

<p>以下はWikipediaからの引用である。</p>

<p>『古墳時代、毛野国は毛野川流域一体に勢力を有し、一つの<br />
文化圏・毛野王国を形成していた。<br />
毛野国の名称の由来は諸説ある。主なものを以下に挙げる。<br />
①かつてヤマト王権から毛人の住む地として毛の国、二字表記<br />
にして毛野の字が当てられた。 <br />
②毛は二毛作の毛、即ち禾本科の穀物を指す。昔この地域が穀物<br />
の産地であったことから毛野の名をなす。』</p>

<p>そして、地方豪族毛野氏の出身である下毛野朝臣古麻呂は、<br />
不比等や粟田真人と共に律令選定に携わっている。<br />
いわば、不比等の腹心と言える人物だろう。<br />
</p>]]>
        
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    <title>鎌足から不比等へ①</title>
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    <published>2009-06-12T05:54:57Z</published>
    <updated>2009-06-12T05:56:40Z</updated>

    <summary>鎌足から不比等へと、スムーズに世代交代できた わけではない。 鎌足というのは、天...</summary>
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        <![CDATA[<p>鎌足から不比等へと、スムーズに世代交代できた<br />
わけではない。</p>

<p>鎌足というのは、天智天皇の側近中の側近だった<br />
人物で、後の天武天皇からしてみたら、敵の参謀<br />
のようなもの。鎌足は娘を天武天皇に差し出して<br />
いるし、壬申の乱の前に鎌足は他界している。<br />
鎌足と天武天皇の間に確執があったかどうかは<br />
定かではないが、兎に角天武帝の時代では鎌足の<br />
後継者である不比等は、ほとんど無視されていたと<br />
言って良い。</p>

<p>不比等も下手に騒がず時を待っていたのかも知れない。<br />
天武帝亡き後、天武の正妃である持統天皇が彼を優遇<br />
するという確信があったとは思えない。</p>

<p>おそらくは運の強い男でもあったのだろう。</p>

<p>持統天皇の不比等に対する寵愛ぶりから、不比等が<br />
実は天智天皇の後胤とする説もある。<br />
上田正昭・元京大教授は藤原氏の血筋をより高貴な<br />
ものとする後裔達による改竄だろうと思っておいで<br />
だったようだが、勿論１００%否定出来るものではない。</p>

<p>不比等よりも、不比等の兄である定慧の方は後胤説が<br />
濃厚だ。孝徳天皇が懐妊中の寵姫を鎌足に与えたと<br />
「日本書紀」や「藤氏家伝」に書かれている。</p>

<p>それが事実であるならば、定慧がわずか11才で学問僧<br />
として唐に留学したことにも関係があるやもしれない。</p>

<p>不比等は幼少の頃は史(ひふと)と言った。兄定慧は<br />
幼名は真人(まひと)である。この二人の兄弟の母親は<br />
尊卑分脈によれば与志古娘(よしこのいらつめ)とされて<br />
いるが、何故か父・鎌足亡き後、史は母方の家に引き<br />
取られず、田辺史大隅(たべのふひとおすみ)の家で<br />
英才教育を受けたようだ。<br />
</p>]]>
        
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    <title>鎌足の目的</title>
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    <published>2009-06-12T04:17:35Z</published>
    <updated>2009-06-12T04:18:59Z</updated>

    <summary>不比等を知るには、どうしても鎌足を知らなければ ならないようだ。 いくら疎遠な親...</summary>
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        <![CDATA[<p>不比等を知るには、どうしても鎌足を知らなければ<br />
ならないようだ。<br />
いくら疎遠な親子だったとはいえ、不比等に英才教育<br />
を施した田辺氏に預けたのは鎌足であり、その意図を<br />
知りたいところである。</p>

<p>鎌足も、その功績については記録も残っているが、<br />
人となりについては天智・天武両天皇の影に隠れ<br />
見えてこない。</p>

<p>あくまでも控えめに...<br />
この生き方は息子不比等にも受け継がれている。<br />
不比等の天智天皇後胤説は完全に否定出来ないが、<br />
鎌足・不比等親子は権謀術策の人であり、軍師的性格<br />
を持つ所など、良く似ている。<br />
これぞと決めた皇族を援護しつつ、最悪のシナリオを<br />
描くことを忘れない。根回しをして、命綱が完全に<br />
たたれないように上手く立ち回っている。</p>

<p>不比等は天智の右腕と言われた鎌足の嫡子でありながら<br />
近江朝崩壊と共に、一介の貴族にまで階位を落とされ、<br />
ほぼ０からのスタートを強いられた。<br />
しかし、忍耐強くチャンスは逃さず、強運を味方に<br />
付けて一段ずつ昇って行ったのだ。</p>

<p>鎌足とて、その能力以外に強力な後ろ盾があったわけ<br />
でもなく、自分の力で官僚TOPにまで昇り詰めたのだ。</p>

<p>その生き方、立ち位置、親子じゃなくてなんであろう<br />
と思えるほど似ていないだろうか?</p>

<p>不比等の本当の父親が誰かは解らない。<br />
しかし、不比等はその生き方を鎌足から学んだと言う<br />
ことが出来るのではないだろうか。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>藤原不比等は鎌足の次男</title>
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    <published>2009-06-12T04:14:45Z</published>
    <updated>2009-06-12T04:17:28Z</updated>

    <summary>この国を大陸の属国にしてはならない! 独立国を我らの手で創るのだ!! きっとこれ...</summary>
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        <name>まーく</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blueskiespc.com/fuhito/">
        <![CDATA[<p>この国を大陸の属国にしてはならない!<br />
独立国を我らの手で創るのだ!!</p>

<p>きっとこれが鎌足・天智天皇共通の目標だったに<br />
違いない...と、私は思っている。</p>

<p>鎌足という人物、藤原姓を賜る以前は中臣鎌足と<br />
言った。藤原姓を賜ったのは、まさしく死の直前<br />
だったと言われている。</p>

<p>このブログの主人公、不比等はこの鎌足の後継者ではあるが<br />
実は次男である。長男は定慧(じょうえ)と言い、11才という<br />
異例の若さ(というよりも少年である)で唐に留学しており、<br />
２０代で帰国してすぐ他界している。<br />
そのため、鎌足の実質上の後継者は不比等ということになる。</p>

<p>藤原鎌足という人物、その明晰な頭脳ゆえ天皇の右腕として<br />
寵愛を受け続けた反面、嫉妬も絶えなかった。<br />
常に暗殺の危機にさらされていたことだろう。<br />
それでも天智天皇の絶大な信頼と自身の能力で、常に<br />
官僚制度のTOPに居続けたのだ。</p>

<p>それなのに、その後継者である不比等が、31才になるまで<br />
歴史の表舞台に登場してこなかつたのは何故なのか。</p>

<p>梅原猛氏が、「歴史というのは、書かれていることよりも、<br />
書かれていない事に意味がある」という様な<br />
事を仰っておられたが、その書かれていない事、<br />
おそらくは削除・改竄されたことにこそ、<br />
真実が隠されているのだろう。</p>

<p>何処の国のどの時代でも当代の施政者によって<br />
為されてきたこと。</p>

<p>そして、今我々が知る日本の古代史は、おそらく<br />
不比等によって捏造されたものであろうと、多く<br />
の学者や研究者が語る。<br />
そして「日本国」を創ったのは、不比等であると。<br />
しかし、不比等自身については実はあまり情報がない。<br />
正に影の王なのだ。</p>

<p>日本人ならば興味が湧きませんか?<br />
日本国の創始者の正体に。</p>]]>
        
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    <title>晩年の石上朝臣麻呂</title>
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    <published>2009-06-12T04:12:52Z</published>
    <updated>2009-06-12T04:14:38Z</updated>

    <summary>石上朝臣麻呂が他界したのは717年、77歳であった。 そして、不比等が亡くなった...</summary>
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        <![CDATA[<p>石上朝臣麻呂が他界したのは717年、77歳であった。<br />
そして、不比等が亡くなったのはその三年後の720年。<br />
享年61歳である。<br />
当時の平均寿命は50歳を下回ると言うことだから、<br />
石上朝臣麻呂は相当長生きしたことになる。</p>

<p>不比等は石上朝臣麻呂よりも20歳近く若いにも拘わらず<br />
死亡時期はわずか３年しか違わないのである。</p>

<p>石上朝臣麻呂については、狡猾で時には冷酷である反面<br />
奴婢や農民など、苦役に苦しむ人々に同情的であったと<br />
黒岩氏は言う。</p>

<p>石上朝臣麻呂はその晩年を藤原京の留守司となっている。<br />
一般には不比等が石上朝臣麻呂を旧都に置き去りにした<br />
と思われている。</p>

<p>民百姓に同情的な石上朝臣麻呂が、律令制や政治のあり方<br />
に不満を抱き、時には不比等達に対し苦言を呈したことも<br />
あっただろう。不比等達にしてみたら、鬱陶しい存在で<br />
あったのは間違いない。</p>

<p>しかし、黒岩氏はその著書の中で、石上朝臣麻呂が自発的<br />
に藤原京に残ったとしている。</p>

<p>左大臣という地位も、不比等が実権を握る政界に於いては<br />
お飾りでしかなく、嘗てのたぎるような出世欲もここに<br />
きて虚ろなものに思えて来たと考える方が自然ではないか。</p>

<p>今の70代と違って、当時の70代は孤独であっただろう。<br />
家族も友人も知人も皆あの世なのだ。<br />
平城遷都にあたり、彼は自分が最も役立った日々に過ごした<br />
藤原の地に残り、旧都が人々に忘れ去られても、朽ちること<br />
のないよう守りたいと願ったのだとしたら...。</p>

<p>そのような老境の石上朝臣麻呂を思う時、不比等という人物<br />
の冷徹さが見えてこないだろうか。<br />
</p>]]>
        
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